◆ Verse 131
パーリ語原文:
Sabbe tasanti daṇḍassa, sabbesaṁ jīvitaṁ piyaṁ;
Attānaṁ upamaṁ katvā, na haneyya na ghātaye.
日本語訳:
すべての者は罰を恐れ、命を大切に思う。
自分に置きかえて考えるなら、誰も殺してはならないし、殺させてもならない。
◆ Verse 132
パーリ語原文:
Sukhakāmāni bhūtāni, yo daṇḍena vihiṁsati;
Attano sukhamesāno, pecca so na labhate sukhaṁ.
日本語訳:
幸せを求めているすべての生き物に対し、
罰を与え苦しめる者は、
自分の幸福を願っていても、死後それを得ることはできない。
◆ Verse 133
パーリ語原文:
Sukhakāmāni bhūtāni, yo daṇḍena na hiṁsati;
Attano sukhamesāno, pecca so labhate sukhaṁ.
日本語訳:
幸せを求める生き物を傷つけずにいる者は、
自分の幸福を願っているならば、
死後もその幸せを得ることができる。
◆ Verse 134
パーリ語原文:
Mā’voca pharusaṁ kañci, vuttā paṭivadeyyu taṁ;
Dukkhā hi sārambhakathā, paṭidaṇḍā phuseyyu taṁ.
日本語訳:
誰かに対して荒々しい言葉を言ってはならない。
もし言われたならば、相手も言い返してくるだろう。
怒りの言葉は苦しみを生み、その報いは自分に返ってくる。
◆ Verse 135
パーリ語原文:
Seyyo ayoguḷo bhutto, tatto aggisikhūpamo;
Yaṁ vācaṁ bhāsamāno pi, nā’numetī paraṁ tapo.
日本語訳:
もし怒りにまかせた言葉を話すくらいなら、
むしろ、燃え盛る鉄の玉を飲み込んだ方がましだ。
その言葉は他者に大きな害を及ぼす。
◆ Verse 136
パーリ語原文:
Vācānurakkhī manasā susaṁvuto,
Kāyena ca nākusalaṁ kayirā;
Ete tayo kammapathe visodhaye,
Ārādhaye maggamisippaveditaṁ.
日本語訳:
言葉を慎み、心をよく制御し、
身体で悪しき行いをしない者──
この三つの行いを清めることで、
賢者の示した道に近づくことができる。
◆ Verse 137
パーリ語原文:
Dandaṁ nidhāya bhūtesu, tasesu thāvaresu ca;
Yo na hanti na ghāteti, taṁ āhu brāhmaṇaṁ.
日本語訳:
生きとし生けるもの、動くものにも動かぬものにも
罰や暴力を用いず、殺さず、殺させずに生きる者──
その人こそ「真の修行者(ブラフマナ)」と呼ばれる。
◆ Verse 138
パーリ語原文:
Ahiṁsā sabbapāṭesu, sabbattha paṭipajjati;
Esa brāhmaṇasammatto, esa hoti suvimutto.
日本語訳:
すべての存在に対して無害であろうと努める者は、
どこにいても心安らかであり、
真に自由になった修行者である。
◆ Verse 139
パーリ語原文:
Na tena brāhmaṇo hoti, yena pāṇāni hiṁsati;
Ahiṁsakena brāhmaṇo, yaṁ passanti samāhitā.
日本語訳:
生き物を傷つける者は、修行者ではない。
心を調え、他者を傷つけない者こそ、
本当の意味での修行者である。
◆ Verse 140
パーリ語原文:
Na muṇḍakena samaṇo, abbato alikavādī;
Icchālobhasamāpanno, samaṇo kiṁ bhavissati?
日本語訳:
頭を剃っただけで修行者にはなれない。
戒を守らず、嘘をつき、欲にとらわれているならば、
それがどうして真の修行者と言えるだろうか?
◆ Verse 141
パーリ語原文:
Yo ca sameti pāpāni, aṇumattesu vajjesu;
Samādāya sikkhāpadaṁ, eso samaṇoti vuccati.
日本語訳:
どんなに小さな過ちであっても慎み、
戒律を受け入れて守る者──
その人こそ、真に修行者と呼ばれる。
◆ Verse 142
パーリ語原文:
Na tena bhikkhu so hoti, yāvatā bhikkhate pare;
Vissaṁ dhammaṁ samādāya, bhikkhu hoti na tāvade.
日本語訳:
他人からの施しで生きているだけでは、
その人は本当の意味で「比丘(修行僧)」ではない。
真理に従い、内面を修めた者が、
比丘と呼ばれるにふさわしい。
◆ Verse 143
パーリ語原文:
Yasassino yasassī ca, sīlavā ca anāvilo;
Saṅkhātadhammadhārī ca, taṁ bhikkhuṁ iti vuccati.
日本語訳:
高貴な行いをし、戒を守り、
心に曇りなく、真理を保つ者──
その人が「比丘」と呼ばれる。
◆ Verse 144
パーリ語原文:
Na tena ariyo hoti, yena pāṇāni hiṁsati;
Ahiṁsakena ariyo, yaṁ passanti samāhitā.
日本語訳:
生き物を傷つける者は、聖なる者(アリヤ)ではない。
無害であり、心を調えた者こそが、
真に聖者と見なされる。
◆ Verse 145
パーリ語原文:
Na muṇḍakena ariyo, yāvatā muṇḍati sīsato;
Yassa pāpāni sammanti, esa ariyo ti vuccati.
日本語訳:
頭を剃ったからといって、聖者にはなれない。
内面の悪が静まったとき、
その人こそ「アリヤ(聖者)」と呼ばれる。
(第10章「刑罰品」おわり)
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